教育現場の崩壊、ナショナリズム、愛国心、育成と強要

 スポーツの国際試合では、だれもが自国チームを応援する。愛国心は自己愛、親族愛の延長として育つ。ところが、いたるところ、隣人、同胞は競争相手であり、押しのけてでも自分の利益を追求する場面が見られる。「努力するものが報われる、勝ち組負け組み、勝敗の偏重」を国是とし、格差社会、富の偏在化、富める者は益々富む、昨今の社会システムだ。国民道徳、倫理をわかりやすく「努力するものが報われる」と表現する。この喧伝を行う行政、政治家、リーダー界は、努力という言葉ですべての問題を覆い隠す。人々はいつも単一的な勝敗という基準のみを押し付けられる。自分は勝ったのだ、負けたのだと。勝利の安心感は常に脅かされ、いつ何時自分が勝者から敗者へ転落するかもしれないという不安を抱く。この構造が子供社会のいじめに転写されている。いじめられる者を常に必要とし、それは誰でもかまわない、空席にしてはいけない。いじめられる生徒がいることでそのクラスは秩序を保つ。これを仕切るのが先生にも評価の良い優等生だ。
こうして、この子供たちは深層心理に周囲の人間を常に警戒する、自己保身の必須性を刷り込み、表面を取り繕う。こうした国において愛国心は権力から国旗掲揚や国家斉唱、憲法や法律での愛国心の義務の強制がないと、連帯できない国民となる。マスコミや教育関係者,父兄のせいでなく、国の法体系、法思想、倫理道徳思想の選択によって、愛国心は本物が育つか、傭兵のように唯経済的なこととして半端な表面的な愛国民が育つかだ。